ファイルマガジン
ファイルマガジン『日本の城DVDコレクション』第26号は「美しき日本の遺産 現存12天守に攻め入る③」として、丸亀城と姫路城が特集されてます。
姫路城は、もうこのファイルマガジンでは3回も記事になってますので、今回のブログでは丸亀城推しでいきたいと思います。(とある星人さん、日々散財さん、ごめんなさい。)
丸亀城はなんと言ってもこの巨大な石垣ですよね。丸亀城の御城印にも「石垣の名城」と書いてあるくらいですからね。
そして、城の近くには藩主の庭園の『中津万象園』があります。讃岐は丸亀も高松も藩主の庭園が残ってるのが、うらやましいです。
さて、幕末になると丸亀藩主「京極朗徹」(きょうごくあきゆき)は勤皇の土佐藩と手を結び、高松藩追討にあたったそうです。同じ四国でも伊予や讃岐は佐幕派の藩があったり、勤皇派の藩があったり興味深いですよね。
以上、ファイルマガジン『日本の城DVDコレクション』でした。
この記事へのコメント
素朴な疑問で恐縮ですが、このファイルマガジンって何回も同じ城を取り上げるんですか?何故一気に紹介しないんですか?大きい城でも一冊で語りきれないなら二冊とかでも連続して取り上げてもらったほうが飛び飛びにやるより良いような気がするんですが。
そうそう、デアゴスティーニだったわ、これ!
私も仮面ライダーの集めてたのでデアゴスティーニのやり方は知ってますのでね。
やっぱ、丸亀城行っとくべきだったな。と後悔。
そうですよね。私もディアゴのファイルマガジンでは『宇宙戦艦ヤマト』をファイルしてましたが、ヤマトだけでも数回に分けて特集してましたよ。
私としては、現存12天守は他の城と合同にせずに1冊で特集して欲しいと思ってますが。
今は、西日本豪雨で崩落した石垣の修復工事もやってますので、珍しいと思いますよ。石垣って、こうやって直すのかと勉強になりますよ。
師団司令部は善通寺なのに歩兵聯隊は丸亀。今でも善通寺の陸自が丸亀城の清掃をしていると聞きました。高松城跡(玉藻公園)と栗林公園は、瀬戸大橋開通時に行きましたので辛うじて覚えています。
長らくご無沙汰の鉄道旅行もしたい。取り敢えず予讃線を宇和島まで完乗することが目標!!
先日、大阪で時間があったので梅田(大阪駅)から難波(南海なんば駅)まで御堂筋を歩きました。ちょっとした大阪観光。淀屋橋で少し左へ入ると、緒方洪庵の適塾跡。宇和島ゆかりの大村益次郎も学んだ日本一の蘭学塾。街歩きは楽しい発見があります。
丸亀城に初めて行った時、「ここに歩兵聯隊があったのか」と思ったものです。
今度、四国へお越しの時は時間がありましたら、丸亀城にも寄ってみてください。
両藩とも領地が五万石くらいの小さな藩ですから。でも、両藩とも幕末は勤皇派でした。
横須賀は相変わらず「三笠」閉艦のまま。気が滅入るので先ほど横須賀中央駅界隈へ散歩に出まして、方丈さんでロースかつ定食を賞味。ハイフリの聖地らしく壁にキャラがずらりと並ぶ。アニメとはかなり違う店内ですが、美味しいです。
私的には味噌カツが好き。きしめん、ういろうと並ぶ名古屋名物。昔名古屋で乗り継ぎ飛騨へ行っていたとき、特急「ひだ」車内で名古屋駅で買った味噌カツ弁当をよく食べてました。
名古屋城本丸御殿も早く見たいですし、模擬天守だが清州城も行ってみたい。本物の清州城跡はJRの線路(新幹線・在来線)に分断されており、今は織田信長の銅像が立っているだけ。
名古屋近辺も見所が多いんですよね・・・
海軍カツカレー、美味しかったです。劇場版『ハイフリ』に出てた「肉巻きミルフィーユカレーおにぎり』を食べそこなったので、次回は是非とも食べてみたいです。
清州城、信長が2番目に居城にした城でしたっけ?最初は那古野城でしたね。
織田信長の移動した跡は、現在の東海道本線沿い(清州~岐阜~安土)。最初の那古屋城は徳川家康が天下普請で名古屋城を築き、城下町を整備したときに跡形なく消えてしまいました。確か城内に碑だけはあったように記憶します。
新幹線で名古屋を出ると、みるみる増速し木曽川・長良川・揖斐川を渡ってあっという間に関ヶ原です。越えるとすぐ伊吹山の雄姿が見え、米原駅通過。ここで「関西に来たな」と実感するのが関東人。
大名コレクションが一番よく保存されているのが、名古屋の徳川美術館。水戸にあるのは徳川ミュージアム。紛らわしいですが、運営するのは別団体です。名古屋が徳川黎明会、水戸は旧水府明徳会の後継団体。
紀州藩だけ無いんですね・・・。実は紀州藩は現ご当主(女性)で断絶してしまうことが確実です。十五人中七人も将軍を輩出したのに。
きしめん、名古屋駅新幹線ホーム(上り線)が絶品。名古屋から「のぞみ」に乗る前に必ず食べました。すっかり御無沙汰。
ああ、「しらせ」を見ました。遠景ですけれど。デカいです。
八代将軍徳川吉宗が、御三卿まで作って将軍職を独占しようとした紀州大納言家も終わりなんですか!驚きと同じに時の流れの残酷さを感じます。
大名コレクションとしては、土佐山内家もよく残っているほうではないかと思ってます。岩崎弥太郎(三菱)のおかげですね。
そうそう那古野城が正解でした。
八代将軍・徳川吉宗。紀州藩主の四男として生まれながら、兄たちの早世によって紀州藩主から征夷大将軍にまで登りつめたラッキーボーイ。仰るように御三卿(田安・清水・一橋)を創設して幕府を盤石にし、紀州系の天下を実現したと思われましたが、結果的に、それが徳川幕府にトドメを刺す結果となってしまいました。
これから大河ドラマで出てくる将軍継嗣問題(水戸出身の一橋慶喜か、紀州藩主慶福【よしとみ】か、の論争)は、徳川幕府に深い亀裂を走らせました。慶福を推し将軍職(十四代家茂)につけた大老・井伊直弼は、やがて水戸浪士たちに殺され、亀裂は遂に徳川幕府を真っ二つに裂いてしまいます。
水戸出身の慶喜は賢く周囲の期待を一身に集めたが、勤王藩の出身で母親が皇族である彼は、遂に徳川幕府に引導を渡した(大政奉還)。
吉宗が『徳川のため紀州のため」と思って撒いた種は、後世、徳川幕府に致命の一撃を与えたわけです。
あの世で吉宗はどう思っているでしょうね。しかも最優先に考えた紀州の血は、令和の現在、正に絶えようとしている。
先のことは分かりません。
水戸浪士に暗殺されたのはアンラッキーだったかも知れませんが、彼は第13代彦根藩主の16男、とても彦根藩主などになれる立場ではなかった。
ところが、第14代彦根藩主(第13代彦根藩主の3男)の養子になっていた兄で第13代彦根藩主の11男が38歳の若さで死去してしまったために、第14代彦根藩主の2番目の養子になっていた直弼に第15代彦根藩主、徳川幕府大老の地位が回ってきた。
徳川慶喜という人がそういう出自なら、どっちにしても徳川幕府を終わらせていたと思います。ただ、そのタイミングを待っていた。
土佐藩が出した「大政奉還建白書」は良いきっかけになったのだと思います。
彦根城に埋木(うもれぎ)舎というのがあります。井伊直弼が自分自身の不遇時代を意味する言葉として名付けたもの。
井伊家は、徳川四天王「赤備え」で知られます。徳川譜代で最も勇猛な家。東京の紀尾井町は紀州・尾張・井伊の頭文字を繋いだ地名ですが、そんな井伊家の当主直弼はバリバリの保守派。
次期将軍に一橋慶喜を推す一橋派の主力は、有名な四賢公(島津斉彬・伊達宗城・山内容堂・松平春嶽)。井伊から見れば「外様大名ふぜいが幕政に口を出すなど言語道断」です。
やはり時代の変化ですね。syお外国が日本に迫りつつある時代、家康時代の旧態依然たる政治体制ではやはりダメだった。豪農とはいえ農民出身の渋澤栄一が慶喜に拾われたのも、そういう時代だったから。